伏 見 城

天下人二人が築いた隠居所と京都の拠点の城

 所在地:京都府京都市伏見区桃山町大蔵
 別  称:指月城、桃山城
 築城年:文禄元年(1592)、慶長6年(1601)
 築城者:豊臣秀吉、徳川家康
 形  式:平山城
 遺  構:石垣、堀、移築城門、模擬天守

 地図 
模擬天守
歴 史  文禄元年(1592)豊臣秀吉は隠居所として伏見の地を選んで築城。この城は後の伏見城に比べると規模も小さく、指月城と呼ばれた。その後、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)の講和使節を迎えるのに際し、文禄3年(1594)諸大名に命じて大工事の末に絢爛豪華な城を築き上げた。
 しかし、この城も慶長元年(1596)7月の大地震で倒壊。このため朝鮮使節との会見は大坂城で行い、秀吉は直ちに城の再建を命じ、10月には本丸、翌慶長2年(1597)5月には天守をはじめ殿舎が完成した。
 翌慶長3年(1598)8月、秀吉が伏見城で逝去すると、直ちに徳川家康が伏見城に入城。徳川政権への大きな足固めとなった。
 慶長5年(1600)家康は鳥居元忠に伏見城の守備を命じ、模擬天守自らは会津上杉氏の征伐に向かった。その隙に乗じて石田三成らが挙兵、大軍でもって攻撃したため伏見城は炎上して落城、関ケ原の合戦の前哨戦となった。
 戦火を受けた伏見城は家康の手によって慶長6年(1601)に復興され、慶長8年(1603)二条城で征夷大将軍の宣下を受けた家康は伏見城で政務を執ることが多かったため「伏見幕府」とも呼ばれた。三代将軍家光が将軍宣下を受けたのも伏見城であった。
 元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡、三代将軍家光の時代となると江戸幕府の基礎も固まったため伏見城の廃城を決定。寛永2年(1625)伏見城の破却は完了し、五層の天守が二条城に移築されたほか、城内の建物や石垣は寺社など各所に転用された。二条城の天守や大坂城の伏見櫓は焼失したが、現存する代表例が福山城伏見櫓である。
一口話  徳川家康が会津上杉征伐に向かったのは、その隙に石田三成が挙兵すると見越してのことであった。伏見城を預かった鳥居元忠は家康が駿府で人質時代を過ごしていた頃のお守役の一人であった。
 家康は石田三成が挙兵すると真っ先に伏見城を攻めると考え、鳥居元忠に「好むだけ守備兵を与える」と言ったが、元忠はすでに死を覚悟してその申し出を断り、城兵は甲賀の郷士を含めてわずか1800余であった。
 鳥居元忠討死、伏見城落城の知らせに、家康は人目を避けるようにして涙をこらえたという。関ケ原前哨戦の悲話である。
見どころ  天守閣内部に復元された「黄金の茶室」伏見城は五層の天守が建つ本丸を中心に、二の丸・西の丸・松の丸など12の曲輪を配し、北から東側に巨大な堀、南の宇治川には船入りを設け、西には外堀をめぐらすという縄張りであった。
 この巨大で華麗だった伏見城跡も、その主要部分は今では桃山御陵(明治天皇陵)で、禁足の地となっている。
 昭和39年に伏見城跡の一角に五層の大天守と三層の小天守からなる連結式の模擬天守が建てられ、キャッスルランドという遊園地としてオープンした。模擬天守の内部は桃山文化史館という資料館になり、桃山時代の華麗さを偲ばせる品々が展示されていた。御香宮神社に移築された大手門
 その中でも見ものは3階に復元された「秀吉ゆかりの黄金の茶室」で、NHKの大河ドラマ『秀吉』のロケもここで行われた。天守の最上階からは鬱蒼と茂る木々に覆われた広大な桃山御陵(伏見城跡)が一望できたが、キャッスルランドは長引く不況には勝てず、採算難から平成15年1月31日で惜しくも閉じざるを得なくなった。
 豊臣秀吉と徳川家康という天下人が築いた伏見城跡が今では宮内庁の管理下に置かれている以上、桃山御陵への参道から在りし日の伏見城を想像するほかはなくなった。
 近鉄桃山御陵前駅のすぐ近くにある御香宮神社の表門として伏見城大手門が移築され、伏見城の貴重な遺構となっている。
周辺案内  寺田屋伏見では寺田屋が有名である。薩摩藩の定宿で、土佐の坂本竜馬が刺客に襲われた際、風呂に入っていたお竜(後の竜馬の妻)の機転で逃れた「寺田屋騒動」の時の刀傷跡が今も柱に月桂冠大蔵記念館残り、2階には竜馬の肖像画などが展示されている。寺田屋は現在も旅館として経営しており、坂本竜馬を慕って訪ねる客が引きも切らない。
 伏見は酒どころで、寺田屋から月桂冠大倉記念館へ行く道には、酒倉が建ち並んでいて川岸に美しく映えている。大倉記念館には明治時代の帳場や酒造りの道具が展示され、利き酒もできるので立ち寄りたい。
 また、御香宮神社の社務所の一角には伏見城跡出土展示室が設けられ、大名の家紋入りの金箔瓦や伏見城の鯱(しゃちほこ)の断片など興味を惹かれるものが多い。

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