岩 村 城

信長と信玄が奪い合った日本三大山城の一つ

 所在地:岐阜県恵那市岩村町城山
 別  称:霞ヶ城
 築城年:文治元年(1185)
 築城者:遠山景簾(かげかど)
 形  式:山城
 遺  構:石垣、堀切、郭跡、井戸
      復元櫓・城門

 地図 
本丸跡の石垣
歴 史  岩村城は源頼朝の挙兵に際して軍功をあげ、岩村遠山荘を与えられた加藤景簾が藤坂文治元年(1185)に築城したもので、姓も遠山と改め、代々遠山氏の居城となった。
 この地は西の大垣、東の岩村といわれるほどの軍事、交通の要所で、戦国の世となると、武田信玄と織田信長が岩村城の争奪戦を展開する。遠山氏最後の城主である景任(かげとう)の時、永禄元年(1558)の頃から甲斐の武田信玄軍が美濃に侵大手門跡付近の石垣出、武田信玄の重臣である高遠城主秋山信友が岩村城を攻撃したため、遠山景任は織田信長に援軍を求めた。
 信長は明智光秀を岩村城に差し向け、秋山信友を高遠城に敗走させた。元亀2年(1571)遠山景任が病死すると、信長は五男御坊丸を遠山氏の養子としたが、御坊丸がわずか8歳であったため、景任の未亡人(信長の叔母)が実質上の岩村城主となった。
 一方、景任の死を知った武田信玄は秋山信友に再度の岩村城攻撃を命じ、岩村城を手中におさめた。これに対して信長も大軍を率いて岩村城に向かい、激戦が展開されたが容易に勝敗は決せず、信長としてはここに釘付けになるわけにはいかず、土岐坂ついに兵を引いたため、岩村城は武田方の拠点となった。しかし、天正3年(1575)長篠の合戦で武田軍を撃破した信長は、嫡子信忠に命じて岩村城を攻略させ、秋山信友と遠山夫人は磔にされた。
 その後、信長は河尻秀隆を岩村城主とし、秀隆は城の大改築を行なった。天正10年(1582)河尻秀隆の甲斐移封後は本丸跡の石垣森蘭丸、その兄の森長可が相次いで居城したが、森蘭丸は同年の本能寺の変で討死。また森長可も天正12年(1584)小牧長久手の戦いで討死した。次いで森蘭丸・長可の末弟忠政が岩村城主となり、近世城郭に改築し、城下町を整備した。
 慶長5年(1600)森忠政の信濃松代への移封後、松平氏、丹羽氏などを経て、元禄15年(1702)信濃小諸から松平乗紀(のりただ)が入封。以後、岩村城は松平氏7代3万石の居城として明治維新を迎える。
一口話  戦国時代、岩村城は織田信長の後ろ盾があったにもかかわらず、いとも簡単に武田方の前線基地となったのは、遠山景任夫人が絶世の美女で、しかも好色の未亡人であったため、美丈夫の秋山信友と通じていたからといわれている。
 長篠の合戦で武田軍を破った後、岩村城を攻略した織田信長は、降伏条件である城兵の助命を破棄して皆殺しにしたばかりか、秋山信友を妻ら5人とともに逆磔にし、遠山夫人も長良河原で逆磔の刑に処した。
 遠山夫人は「実の叔母をこのような非道な扱いにするならば必ずやその報いを受けようぞ」と絶叫して果てたという。信長はよほど両人の所業を憎み、世の見せしめにしたものと思われる。
見どころ  復元太鼓櫓と長屋門岩村城は標高721mの城山に築かれた山城で、大和高取城、備中松山城とともに日本三大山城の一つに数えられている。岩村城は日本一標高が高いところにある山城、高取城(奈良県高取町)は日本一比高(山頂と麓の高低差)の高い城で、松山城(岡山県高梁市)は天守が現存する唯一の山城と、それぞれ日本一の特徴を持っている。
 山頂部の石垣で囲んだ本丸と帯曲輪、本丸西下霧ヶ井の二の丸、山麓部の居館で構成され、高低差180mの天然の地形を巧みに利用した要害堅固な山城であった。さらには霧の沸き易い気象条件までも城造りに巧みに活かされており、別名「霧ヶ城」とも呼ばれている。
 岩村城の麓にある岩村藩主邸跡は城址公園となり、平成元年から平成2年にかけて長屋門と太鼓櫓が復元された。
 園内に建つ歴史資料館で岩村城の歴史を知ってから、山頂まで登りたい。本丸跡下の出丸跡まで車でも行くことが出来るが、やはり城址公園からの約800mの登城道を登りたい。
 菱櫓跡の石垣まず藤坂と呼ばれる急坂を登ると、途中に城下町を一望できる見晴らしの良いところもある。遠山景簾の妻重の井が藤の木を植えたことから藤坂の名がつき、今も急坂には藤の木が植えられている。
 藤坂を登りつめると一の門跡。ここからが岩村城の本城で、さらに険しい土岐坂になる。美濃の守護大名土岐氏からとった名であろう。
 頂上近くの大手門跡あたりから累々たる見事な石垣が頭上にのしかかる様に圧倒的な迫力で迫ってくる。岩村城跡の石垣を丹念に見て回りたい。
 幾つかの井戸跡もあるが、霧ヶ井は見逃せない。日照が続いても水が枯れることのない井戸で、蛇骨をこの井戸に投げ入れると、本丸跡に建つ岩村城址の碑たちまち霧に覆われて城を守るという伝説がある。
 菱櫓跡の菱形をした石垣も岩村城ならではの遺構。このあたりから眺める本丸跡の壮大な石垣は見事というほかはなく、よくぞここまで登ってきた甲斐があるというものだ。
 枡形の石垣を抜けると、広々とした本丸跡に至る。本能寺の変の前に織田信長が宿営した場所でもあり、この地に立つ時、戦国時代の岩村城争奪戦が偲ばれる。
 本丸跡の下側にはいざという時に落ち延びる細い裏急坂(俄坂)跡もあり、藤坂から本丸跡まで登れば、この山城がいかに要害堅固なものであったかが実感できる。是非、訪れたい山城である。
周辺案内  城址公園には岩村木村邸藩校知新館の正門が残っている。元禄時代の建物で、小藩でありながら文教政策に力を注ぎ、有能な藩士が育っていった。また、藤坂の登り口には、この地が生んだ歌人下田歌子の勉学所も建っている。
 岩村の町並みを散策したい。岩村は江戸時代に東濃地方の政治・文化の中心として栄えた城下町で、特に岩村町本通りは商家の町並みとして国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されたほどの美しい町並みである。
 中でも木村家は江戸時代中期から末期に栄えた問屋で、藩の財政困窮のたびに御用金を調達してその危機を救ったことから、藩主自身が幾度となく木村家を訪れたという。江戸時代、藩主が領民の家を訪れるのは極めて異例のことであった。現在でも、藩主出入の玄関、表通りに面した武者窓、上段の間など江戸時代の町家としての面影を今に伝えている。

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